介護の話をすると、だいたい返ってくる反応はこれ。
「介護を楽しめるなんて、さとちゃんが特別なんだよ」
そうなのかな?
みんな、ステレオタイプな話を鵜呑みにしすぎなんじゃないかな。
もしくは、気負いすぎてるんじゃなんじゃないかな。
もっと直球で言うと、思考停止してるんじゃないかな。
私が意外にも抵抗なく、すんなり介護に馴染んだ理由。
その1:介護は家族がやるものだなんて1ミリも思ってない
「おふくろの介護は、施設やヘルパーに頼むんじゃなくて、嫁にやってほしい」
令和5年に、そんな石坂浩二みたいな夫いる?
いねーよなー?
家族で分担してまかなえるなら、自宅で介護すればいいし、無理ならプロの力を借りればいい。わたしたちのスマホは、インスタやTikTokを見漁るためだけじゃなくて、介護の情報を集めるのにも使えるんだ、実は。
うちの場合は、週3(月水金)デイサービスで、月1ショートステイ。
私の外出が多くなると母の負担が増えるため、そのときはショートステイを増やす。
ちなみに、団塊世代のうちの母は、介護鬱になった自分を責めているっぽい。「介護は家族がやるもの」の呪縛から、完全には解き放たれていない世代。団塊ジュニア世代の私とは、おそらくこの感覚が違う。
ドライな考え方をする私に、プロの手を借りることへの負い目は一切ないし、今後、状況が変わり、フルで施設入居になったとしても、それは変わらない。
その2:人間のお世話をするのが初めてで新鮮
子供を育てたことがないので、人間の面倒を見るのが初めて。
おばあちゃんの紙オムツを交換しながら思う。
これが子供だったら、紙オムツはくのイヤだーって真っ裸のまま逃げ回り、それをとっ捕まえて、押さえつけて、無理やりはかせて・・・(妄想)
地獄絵図だな。子供いる人はみんなやってるのか。なんだよみんな、偉大すぎる。
「育児は終わりがくるけど、介護は終わりがないから辛い」
ってよく聞くけど、私は育児のほうが地獄だと思う派です。
うちのおばあちゃんは、おとなしく紙パンツ交換に応じてくれるもの。
逃げたりしないもん。
良かれと思って世話しているのに、拒絶されるのしんどくないんだろうか。
我が子ならできるのだろうか。妄想の中の私はキレてるけどな。我が子に。
「おばあちゃんの下の世話を甲斐甲斐しくやっている自分」
を見つめているもうひとりの自分がいる。
いいねいいね。
いままでそういうの一切関わって来なかったもんね。
人生においてやっておくべきことだし、貴重な体験だし、いまのあなたに必要な時間だよ。
わたしを見ている私がそう言っている。
その3:介護とは課題解決能力がものをいう
介護をしてみてわかったこと。
介護に求められるのは「おもいやり」だけじゃない。
「段取力」「課題解決能力」が必要とされる。
まかせてくれ。結婚もせず子供も産まず育てず、仕事だけしてきた人生なのだから。
その2つは得意中の得意だ。たとえば。
【問題点】
寝ているあいだに尿漏れして、シーツを濡らしてしまう。
【観察】
紙パンツの中に敷いている尿パッドの吸収が限界というわけではなさそう。なのに漏れてしまうのはなぜ?
【仮説】
紙パンツのサイズが大きいのではないか?Sサイズより小さいのはないのか?
【調査】
店頭にはなかったSSサイズとジュニアサイズをAmazonで見つける
【検証】
SSサイズとジュニアサイズの紙パンツを両方購入し、試してみる
【改善】
尿漏れなくなった!
どちらでも漏れないけど、ジュニアサイズのほうが安定感あるので、今後はこれをAmazonで定期購入。ウエスト周りと足の付け根が若干キツそうなのは見なかったことにする。(虐待疑惑)
ちなみに、近所には「100メートル間隔であるんじゃね?」ってくらいにドラックストアが乱立してますが、Sサイズ以下の紙パンツは置いてないので、ネット購入一択。
ネットが使えないとここで離脱します。
そうして課題解決できず、介護ストレスは溜まる一方。
74歳の母はひとりで介護していたため、この悪循環にはまっておりました。
祖母の認知症は、ゆっくりだけれど進んでおり、進めば介護の手間は確実に増える。
増えたときに、最も効率の良い解決方法を見つけられなければ、介護者はしんどくなるばかり。
クルマの運転もできないので、かさばる紙パンツと尿パッドを自転車で買いに行くのも大変だったことでしょう。
最近の母は、頼んだその日のうちに届く、Amazonのミラクルに感激しております。頼んでるのはわたしなんだけどね。(川越にAmazonの物流倉庫があるので届くのはやい)
母と祖母のOQLが格段にアップ。ベゾスさんありがとう。
その4:圧倒的に条件が良い
- 家に介護者がふたりいる(母と私)
- 私がフリーランスで家で仕事している
- 祖母の要介護度が2で介護がラク
とくに2つ目は大きい。ごくごくたまーに、朝8時半のお迎えが遅れることがある。
うちは余裕で対応できる。私が家で仕事しているし、出かけるとしても2番手の母がいる。母はひきこもりだから100%家にいる。
これ、普通に通勤している家はどうしてるんでしょう。お迎え5分遅れただけでも大変なのでは。
リモートワークか出社ワークかの議論の中に、働く人の先に要介護者がいることは想定されているのだろうかといつも思う。
その5:自分のためにやっている
祖母の介護をする前まで、わたしの思考はわりと楢山節考寄りでした。
姥捨山みたいな。
成田さんが老害老人は自害したらいいと発言して叩かれたのも意味わからなかった。
本当のことを言っただけなのに。
完全に間違っていました。
祖母の着替えを手伝っているとき、彼女の99年の人生に思いを馳せている。
なぜなら動作がめっちゃスローで待ち時間が多く、待っているあいだ、脳内が暇だから。
最初はいろいろ話しかけてたけど、耳が遠くて会話をめんどくさがっているようなので、あまり会話もしなくなった。
祖母は茨城のど田舎で生まれ育ち、なんでかは聞いたことないけど東京に出てきて、B29の下を逃げまわって生き抜いた。
病気がちで赤紙をもらわなかった男と結婚し、その男が入院先で看護婦さんと不倫し、気づけば勝手に籍を抜かれていたうちのおばあちゃん(おじいちゃんは役所勤めだったので、勝手に籍を抜くことができた)
戦争未亡人がわんさかいる時代に、戦争に行っていない夫に捨てられてシングルマザーになる人も珍しいだろう。
祖母がいろいろ投げ出すことなく、貧しい中で生きていくための仕事と子育てを「完全ワンオペ」で頑張ってくれたから、自分がいるのだな、、、としみじみ思う。
ここまで遡って思いを巡らしていても、目の前にいる祖母はスウェットを脱ぐのにいまだ奮闘中。そろそろ手助けするか。
私にとって祖母は、存命のご先祖様。
命をつないでくれてありがとうございます。
いつもそう思いながら介護しているし、その心境になれたことに、なれる機会を作ってくれたことに感謝している。
そうじゃないとあのまま「社会の役に立たないどころか、老害をふりまく老人は自害すればいいのに」なんて、口に出さずとも薄っすら思っていたはずだ。
そして、人はどこかのタイミングで「社会的弱者」になることがあり、そのときは本人の思いとは関係なく、だれかの世話になるのだということも、いつか自分もその立場になるのだということにも気付けないままだっただろう。
「麻ちゃん、ありがとうねー」
介護をし始めた頃、祖母によくお礼を言われた。
「麻ちゃん、ごめんね」じゃなくて「ありがとうね」と言えるのがいい。
そういえば、謝られたことは一度もない。さすがだよ。
介護を受ける立場になったときの、正しい姿勢として、祖母を見ておこうと思う。
以上、わたしが介護になじんだ理由でした。
読んでくれたみなさんの「視点を変えるきっかけ」になれたら嬉しい。